消えゆく炭都ビル
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-『もの喰う日々 もの思う日々』から、一部加筆、再編集して転載-
先日、つらつらとtwitterのタイムラインを眺めていたら、驚きのツイート が。ソースへのリンクがあったので、記事を確認。
「筑豊繁栄の象徴」に別れ 炭都ビル 9月解体
福岡県飯塚市が炭鉱で栄えていた時代の面影を残すJR飯塚駅前の「炭都ビル」が9月、老朽化のため解体される。1950年に建設された鉄筋コンクリート4階建ての2棟。1階には店舗が入り、2階以上は当時珍しかった水洗トイレ付きの高級アパートだった。「筑豊繁栄の象徴」ともいわれた建物が、惜しまれながら姿を消す。
2013/08/27 西日本新聞 朝刊
とうとうこの日が来たか・・・ というのが正直な感想だ。
このブログで飯塚駅前の姿を書こうと思って、写真を撮ったのが2006年8月。
当時の飯塚駅。今はスーパーASO昭和通店の向かいにあるからあげ大将飯塚本店が、1階のテナントに入っている。
駅前通りの街灯には、“鉱山機械”の会社の名前が残っていた。
かつて、福助足袋の代理店かナニかだったのだろうか? ブランドロゴの福助人形の木製看板が掲げてあるトコロもあった。
このエントリーの写真は全てその時撮影したモノで、ココの更新もその時期から止まったままだ(苦笑)。
で、7年前のこの時でさえ、1階の商店街で残っていたのは角の果物店ぐらいだった。
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【発見場所】
飯塚市(旧筑穂町)高田
【コメント】
たまたま通りがかった高田口交差点で、信号待ちの時に発見した物件。
乱れ石垣の上に築かれた丁寧な造りの塀に、半身を埋め込まれた状態で立っていた電柱が、塀の高さに合わせた形で見事に切断されている。断面は見事に丸く整えられ、その美しさに、信号待ちのわずかな時間に衝撃を受けた。
始めは電柱の支柱かとも思ったが、陶製のプレートに記された日本電信電話公社のマーク(あぁ、懐かしい)と、製造年を表す「1974」が、電話線の電柱であったことを物語っている。
埋め込まれた状態からすると、石垣や塀が作られる前からこの電柱が存在していたことが分かるのだが、なぜ、このように見事に切られなければならなかったのか。電柱をも塀の一部としたこの家の住人は、この存在をある意味容認していたはずなのに・・・。
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廃線を訪ねて。今日紹介するのは、上山田線平恒駅。
ココも、もともと無人駅で、今は跡地にライオンズクラブの会館が建っている。
ワタシにとっては、通学時の通過駅の記憶しかないが、駅の隣に「ありがた屋」という廃業した店舗があって、それが一体何の店だったのか、いつも気になっていたのを思い出す。
今は、線路は道路に代わり、歩道の脇にホームの縁石と、待合席が残っているだけである。
ところがこの待合席には、思わぬ再利用法があった。写真を見てもらうとお分かりいただけると思うが、待合席の周囲に柵が廻らされ、“メダカの学校”の看板が掲げられている。柵の中には丸い水槽が置かれ、めだかが水草と一緒に飼育されている。この待合席は、その水槽を陽射しや風雨から守る、まさに“メダカの学校”として活用されているのだ。
ちなみに、この“メダカの学校”の道路を挟んだ向かい側には、 飯塚市立穂波東中学校という現実の学校がある(笑)。
廃線の遺構の再活用。退職後別の仕事に就き、さらに現役で頑張り続ける、団塊の世代の人々の姿と重なるような気分だ。
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筑豊は言わずと知れた石炭産業で栄えた地域。しかし、昭和40年代に相次いだ閉山後、鉱害復旧事業や再開発の波で、往時の繁栄を偲ばせる遺構はどんどん消滅している。
日本の近代化をエネルギーから支えた筑豊炭田。このカテゴリーでは、その近代化の足取りを伝える遺産を、石炭産業の遺構を中心にして紹介する。
第1弾は、飯塚市(旧穂波町)平恒にある、煉瓦製の巻上機台座です。
巻き上げ機とは、坑内からトロッコや台車をワイヤで巻き上げ、石炭の運搬や鉱員の昇降のために使用したもの。この遺構は、その巻上機を据え付ける台座で、よく見かけるものはコンクリート製がほとんど。案内板によれば、この台座は大正期に作られたもので、煉瓦製で、かつこれだけ規模の大きなものは珍しい。台形のシンプルなデザインながら、アーチを設けるなどモダンな造りになっている。
この炭鉱は坑道が斜めに掘削された斜坑で、通常斜坑は本卸坑道と、連卸坑道の二本が掘られている。巻上機台座も2基連なっていて、遠くから眺めるとその威容を知ることが出来る。
この台座は旧穂波町の文化財に指定され、先年本格的な補修工事と公園化がなされた。しかし、補修工事が行なわれたのは本卸坑道用の巻上機台座のみで、連卸坑道用の台座は、荒れるに任されている。斜坑の構造などを後世に伝えるためには2基とも保存されるのが望ましいと思うのだが・・・。
【上の写真は連卸坑道用の巻上機台座】
【下の写真は巻上機台座の説明と炭鉱の沿革を書いた案内板です】
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去年の5月に長崎を旅した。
ホテルに着いたあと、近くのコンビニまで歩いて出かけたのだが、街のあちこちに五芒星を見かけた。まさか、南蛮渡りの切支丹伴天連の妖怪から長崎を守護するためか、それとも、原子爆弾で命を奪われ、彷徨う浮かばれぬ霊魂を寄せ付けないためか、などと陰陽道的な妄想を逞しくしたが、周りを見回すとどうも様子が違う。街頭に付けられた旗など、新しいものにも五芒星が描かれていた。
後で調べて合点がいったのだが、この五芒星は長崎市の市章で、草書の“長”をデザインしたものだという。まったく陰陽道などとは無縁のマークだったのだが、それでも街のあちこちに五芒星を探して、長崎の街歩きを楽しんだ。
この旅では、銅座町の長崎東映ホテルの前にあった屋台で、見知らぬ人と飲んで食べて、明け方近くまで騒いだ思い出がある。また、あの屋台を訪れてみたい。
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